言葉というものは。
私たち人間は、「言葉」という道具を持っている。
これは、互いに意思疎通をするのに、とても便利なものです。
一般的に、
「言葉」を発することは簡単です。
でも、言葉を使いこなすことは、容易なことではありません。
自分が発したいことがあっても、
それを発することで何か、誰かに影響がないかどうか。
もし影響があるとしたら、それはよいものであるかどうか。
もし悪い影響があったとして、それでも発したいかどうか。
発するとして、それに伴う結果をすべて負う覚悟があるかどうか。
それらを考えたうえで、使っていくのが「言葉」だと思うのです。
「言葉を使う」という行為は、
それだけ、重大で、責任が伴う事だと、私は常日頃から思います。
「言葉」というものは本来、互いに贈り合うものだと私は思います。
「会話はキャッチボール」という例えもあるように、
一方的に使うものであってはならないと思うのです。
けれど最近は、この「言葉」というものを、
相手に一方的に投げつける人が多くなったように思います。
『このくらいの球だったら、受け取れるだろう』
『これくらいなら、当たったってどうってことないだろう』
『こんな球も取れないようじゃ、終わってるよ』
そういって、自分の感覚・憶測だけで相手を判断し、
その価値観を押し付ける人がいる。
けれど、考えてみてほしい。
人はみな、ひとりひとり違います。
得意なことや不得意なこと、
体の強さや精神の強さ、
考えること、価値観、見えている世界。
何もかもが違う。
だからこそ、そんな私たちが互いにうまくやっていけるように、
「言葉」というものができたはずなのです。
どうか、「言葉」を使うときは、
相手を想ってください。
あなたが「言葉」を使うとき、
その言葉は、あなたから遠く離れ、必ずどこかの誰かのもとに届くという事を
忘れないでください。
「言葉」の先には、人がいます。
そのことを、みんなが忘れなければ、
きっとこの世界からは、
差別やいじめ、マイノリティで苦しむ人たちは減ると思うんです。
どうか、この先の未来が、
ひとりひとりが自分らしく、堂々と胸を張って生きられる世の中でありますように。
言葉で悲しむ人が減り、多くの笑顔があふれる世の中でありますように。